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スタジオジブリの高畑勲監督が、2018年4月5日(木)にご逝去されました。
高畑勲(たかはたいさお)さんの人生、生み出された作品を振り返ります。
目次
高畑勲さんが東大を出てアニメ会社に入るまで
高畑勲さんは東大を出て、アニメを天職とすることを決めます。
- 1935年に三重県伊勢市で、7人目の末子として生まれる
- 1954年に東京大学文学部仏文科入学
- 「やぶにらみの暴君」というアニメーション映画に影響を受け、東映動画への就職を志す
戦争を経験している世代です。だからこその「火垂るの墓」のリアリティなのかもしれませんね。
高畑さんを語る上で出てくるワードが「インテリ」です。
東大のフランス文学専攻を出ています。
フランスの詩集、映画の翻訳なども手がけているそうです。
大学時代に「やぶにらみの暴君」というアニメ映画を見たことがきっかけでアニメの世界に足を踏み入れます。
高畑さんのインタビュー記事から引用。
アニメーションの道に入るきっかけは、
ポール・グリモオという監督の
長編アニメーション作品
『やぶにらみの暴君』(フランス・一九五二年)
を見たことでした。「アニメーションでこんなことができるのか?」
と、びっくりしちゃいまして……
結局、今になっても
「アニメーションという手段は、
すごい可能性をもったジャンルだ」
と考えているのだから、
『やぶにらみの暴君』という作品は、ぼくに、
出発点から今に至るまで影響を与えているのでしょう。
こちらの本でも書かれていますね。
高畑勲さんの東映動画時代
高畑勲さんが最初に入った会社が東映動画でした。
- 1959年4月、東映動画に入社後一年目は雑用係で暇だった
- 『わんぱく王子の大蛇退治』で演出助手
- 『狼少年ケン』で演出担当(28歳)
- 大塚康生さんによって映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』の演出監督に選ばれる
東大を出た秀才が最初にやった仕事は雑用だったそうです。
同期もたくさんいて、仕事がなかったとか。
ただ、そんな環境で学んだことがその後の映画づくりに役立ったようです。
高畑さんのインタビューを引用します。
ぼくは
「最初は雑用係のほうがいいよ」
と言いたいぐらいなんです。与えられた仕事がつまらないとか、
「教育してくれない」とか
「自分の才能を生かしてくれない」などと、
会社が自分のほうを向いてくれないことに
ただ不満をつのらせるだけでは
どうにもなりません。そんなヒマがあったら、
その間に自分でおぼえられるものは、
みんなおぼえようとすればいい。
その後、大塚康生さんに才能を見出され、当時革新的だった長編アニメーション映画「太陽の王子ホルスの大冒険」を製作します。
アニメは子供向けという風潮の時代に、ベトナム戦争を下地にした大人向けの映画を作っています。
この頃から革新的ですね。
ホルスは、労働組合の仲間だった宮崎駿さんとの初共同作品。
二人の青春の作品です!
宮崎「僕はホルスについては語れないですよ。
ほんとに。キザな話だけど、青春そのものなんですよ。
あらゆる恥ずかしさが全部入ってる。僕もパクさん(高畑勲)も若かったから出来たんですよ。
もう、今なら恥ずかしくて口に出せないようなことも言ってましたからね。
人間を描こうとか……野心に燃えてたんです。」引用:「また、会えたね」
ちなみに、宮崎さんはモテなかったけど、高畑さんはモテモテだったという話が面白いです。
元ネタは「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ」というラジオ番組。
鈴木 宮さんというのは、若い時は、モテたんですか?
大塚 いや、モテないですよ。
鈴木 モテないんですか……理由は何ですか?
大塚 顔ですね。
鈴木 顔? あはははは……顔!?宮さんは、しっかりした、自立心の強い女性が好きですよね。
鈴木 高畑さんは、モテたんですか?
大塚 もう、会社に行くと、豪華なお弁当を作ってくる女の子がいてね。パクさんの机に置いていくんですよ。ぼくなんかそれを、彼が来る前に、とっとと食っていた。
引用:「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ3」
高畑さんと宮崎さんの「Aプロダクション」時代
高畑さんは、宮崎さんを連れてアニメスタジオを点々とします。
- 1971年に宮崎駿と共にAプロダクションに移籍
- 『ルパン三世』後半パートの演出を宮崎駿と共に担当
- 映画『パンダ・コパンダ』を製作
高畑さんは労働組合のメンバで、「我々は団結して会社と戦わねばならない!」と集会で弁舌を振るっていたそうです。
なのにその3日後、退社しました。
宮崎駿さんも「言ってることとやってることちがうじゃないですか!」と突っ込んだらしいです。
しかし「労働組合の高畑勲の立場と、一個人の高畑勲の立場は違う」という屁理屈を返したとか。
面白い人ですねえ。
ジブリのラジオで聞いた話ですが、パンダ・コパンダは高畑さん、宮崎さんに子どもがいた時期です。
自分たちの子供のために作っていたらしいですよ。
(思えばその子供が、ゲド戦記の宮崎吾朗さんですよね)
このときが一番「アニメ作りが楽しい時期だった」と語っています。
(しまおまほさんゲスト回かな?)
また、パンダ・コパンダがトトロに大きな影響を与えたというのも有名な話。
ちなみに、高畑さんが作るアニメは名作ですが、作ったスタッフが疲弊しきってしまうという話もあったらしいですよ。
宮崎さんもこのように語っています。
「彼の通ったあとは、ぺんぺん草も生えないですからね」
引用:ジブリ高畑勲監督、世界で評価される理由は? 宮崎駿監督との比較から作家性を探る|Real Sound|リアルサウンド 映画部
高畑勲の日本アニメーション時代
スタジオを転々としていましたが、日本アニメーション時代は長かったです。
- 1973年、宮崎駿と共に日本アニメーションへ移籍
- 『アルプスの少女ハイジ』の演出を担当 ※場面設定・画面構成は宮崎駿
- 『母をたずねて三千里』の監督を担当 ※場面設定・レイアウトは宮崎駿
- 『赤毛のアン』の演出を担当 ※宮崎駿は、ルパン三世カリオストロの城以前まで場面設定担当
- 『未来少年コナン』では一部コンテ・演出を担当して、戦友の宮崎駿監督を助けた
このあたりはもはや言わずもがなの名作ですね。
ちなみに、ドラえもんがテレビでやっているのも高畑さんの影響が非常に大きいです。
ジブリの鈴木さんが語っています。
企画書、高畑さんが書いてるんですよ。
それで、日本テレビ版の30分のやつを参考試写して、「あ、これはダメですね」って。
なんでなのかっていうと、『ドラえもん』の1話を30分に伸ばすために、シナリオライターが入って、間延びさせていたんですよ。それで高畑さんが、意見を出したのは簡単、「30分の中で、2話やればいい」って。
それで、もうひとつ「シナリオは書くな。原作をそのままやればいい」って。
テレビアニメの1話15分形式は高畑さん発案なのです!!すごい!!
書籍『「ドラえもん」への感謝状』の中にも高畑さん登場してますね。
今多くの人に「知られている」ドラえもんは高畑さんなくしては、無かったのです。
映画監督になった高畑勲(テレコム・アニメーションフィルム時代)
ここから「映画監督、高畑勲」に変貌していきます。
1980年のことです、45歳から新たなことに挑戦し続ける創作意欲。すごい。
- 漫画『じゃりン子チエ』の映画化を監督
- 自主制作映画『セロ弾きのゴーシュ』の監督
この時期、ジブリプロデューサの鈴木敏夫さんが、高畑さんと初めて接触しています。
当時、アニメージュの編集者だった鈴木さんは高畑さんにインタビューを申し込むも、拒否されます。
「あなたの雑誌は○○だからくだらない、だからインタビューを受けない」…みたいな話を何時間もされたとか
(普通は「お断りします」の一言で終わりですよね)
鈴木さんはナニクソと思い、インテリな高畑さんに対抗できるようにたくさんの教養本を読み込みます。
また、原作(じゃりン子チエ)も読み込んだ上で高畑さんに再度挑みます。
※「なぜ原作の、このエピソードを削ったのか?」と具体的に迫ったそうです。
毎日会っては、議論を繰り返すうちに、映画は完成。
映画の完成パーティで高畑さんから、
「あなた(鈴木さん)といろんな話をすることによって、僕はこの映画をどうやってつくったらいいか、非常に明快になった」
と感謝されたそうです。
このエピソードだけでも充分、作品になりそう(笑)
鈴木さん目線で語る高畑さんとジブリの話は、下記の2冊がめちゃくちゃ面白いです。
テレコム・アニメーションフィルム退社後、スタジオジブリ設立前
鈴木さんと出会った高畑さん、宮崎さん。
この3人がジブリを作る直前の時代です。
徳間書店出資のもと、風の谷のナウシカが作られていました。
- 風の谷のナウシカのプロデューサになる(監督は宮崎駿)
- 映画『柳川堀割物語』の脚本・監督
風の谷のナウシカはヒットしてお金ができました。
そこで、高畑さん監督の作品を作ろうという話になり柳川堀割物語を作りますが、赤字になります。
かぐや姫の物語も日本映画類を見ない、制作費50億円で有名です。
しかし、この頃からお金を大量に使う創作者でした。
スタジオジブリ設立後
赤字を回収するため、スタジオを作って映画を作ろうと持ちかけたのは高畑さんでした。
スタジオジブリといえば宮崎さんの印象が強いかもしれませんが、常に高畑さんの存在があったんですね。
- 1985年スタジオジブリ設立
- 1986年『天空の城ラピュタ』のプロデューサ
- 1988年『火垂るの墓』の脚本・監督
- 1989年『魔女の宅急便』の音楽演出
- 1991年『おもひでぽろぽろ』の脚本・監督
- 1994年『平成狸合戦ぽんぽこ』の原作・脚本・監督
- 1999年『ホーホケキョ となりの山田くん』の脚本・監督
- 2013年『かぐや姫の物語』の原案・脚本・監督
- 2016年『レッドタートル ある島の物語』のアーティスティック・プロデューサ
1990年台だけでも、多くの作品を生み出しています。
遺作となったのは「かぐや姫の物語」でした。
70歳を超えても、初音ミクで仮歌を作っていたそうです。
根っからのクリエイターだ。
かぐや姫の製作にあたっては、日本中の最高峰のアニメーターが「伝説の」高畑さんと仕事をしたいと集まったとか。
また、あまり知られていませんが、世に出た最後の仕事は映画「レッドタートル」のプロデュースでしょう。
この映画も高畑さんがいたからできた作品とも言えます。
監督はジブリ初の海外映画監督ビットさん。
ビットさんは、ジブリと高畑さんが協力してくれるなら映画を作ると言っていました。
ビット監督がオファーを受ける条件として提示したのは、
「制作全般に対して、高畑勲監督から助言を受けること」。
これを受け、本作に参加した高畑監督は
「アーティスティックプロデューサーという名前は立派だが、
そんな役割はできていない。自分が監督するんじゃない作品に、
途中の過程で意見を言ったりするのが初めての経験だった。不安もあった」と述懐。
そのうえで、本作の完成度を「大変嬉しかったし、安心した。非常に優れた作品ができたんじゃないかと思いました」と絶賛引用:高畑勲監督「レッド・タートル」完成度にご満悦 宮崎駿監督が語った“3つの思い”とは : 映画ニュース – 映画.com
レッドタートルは面白い試みの映画です(娯楽映画!…ではないですけどね)
高畑勲とその生涯のまとめ
高畑さんの人生と、その中で生まれた作品を紹介しました。
- 宮崎さんの人生で最も大きな影響を与えた師匠であり友人
- 今の日本のアニメ、世界のアニメに大きな影響を与えた人物
ということが分かります。
かぐや姫の物語の演出技法も後年、高く評価がされるはずです。